連載-1     

第13回講演会より〜岡田 清先生〜
  

  昨年11月30日に行われた第13回講演会での岡田清先生(成城大学名誉教授)の講演を
 今月号よりご紹介していきます。
 
 講題についてお話しする前に、私には成田空港開港時の、とても印象深い思い出があるので、少しお話したいと思います。

 まずは開港前、「なぜ早く開港しないのか」などと新聞社からの取材を多数受けていた頃、日本テレビの「成田空港問題」についての討論会に生出演した時のことです。出演者には、政治家の浜田幸一さんと反対運動の先頭に立っていた戸村一作さんがおりました。その時、浜田さんは戸村さんに対し、「あなたは農民でもないのに、なぜ反対するのですか」と非常に厳しく糾弾していました。この戸村さんは、成田の農機具屋さんであり、開港前の反対運動中に、頭を負傷しました。それに憤慨した戸村さんは、当時、佐世保の有名なエンタープライズ事件で東京に帰ってきた過激派のリーダーに対し、成田空港問題についての支援を頼んだのです。これが、現在の中核派を中心とした反対運動が非常に熾烈化した原因の一つでもあるわけです。

 そして、やっと開港までに漕ぎ着けた昭和53年3月26日、成田空港では供用後初の着陸便となるはずのヨーロッパからの飛行機に、私は搭乗していたのです。しかしその便は、成田着陸ではなく、羽田に着陸、タラップを降り立つと、そこには大勢の新聞記者が待ちかねていたのです。「何事であろう」と思っていたところ、新聞記者の一人に私のゼミナール出身であった共同通信社の記者がおり、取材を受け、そこで極左暴力集団が成田空港の16階管制塔を破壊したという事実を知りました。この便が成田に着陸できなくなってしまった第一便、俗に言う「幻の第一便」であったということです。

 また、当時の運輸省(現在の国土交通省)の元次官であった秋山さんは、箱崎にターミナルを作り、成田空港開港の準備をしていましたが、当の空港がなかなか開港に至らず、箱崎のターミナルが大赤字になってしまいました。そんな時、秋山さんの趣味であった写真を使い、箱崎で展覧会を開催、展示した写真の大半を販売して、少しでも箱崎を応援しようとしていたことが思い出されます。さらに秋山さんは、東京空港交通の会長でもあったため、「お客様の搭乗を遅らせるようなことがあってはならない」と、成田・箱崎間のバスに、ご自身で少なくとも150回以上の乗車をし、所要時間を緻密に計算して、成田空港の開港を待ったという経緯があります。

 「成田空港はアクセスが非常に不便である」ということは、既に皆さんにご指摘いただいているとおりですが、成田空港関係者の方々には、成田開港のために多くの人々の様々な苦慮と努力があったのだということを、再度、認識しておいて頂きたいと思います。

 さて、今日の成田空港は、4万人以上の空港従事者を抱える規模にまで成長しています。空港というのは、規模が大きくなればなるほど、雇用効果も大きくなるものです。私は雇用効果を伴う空港周辺の開発というものをしっかりと発展させていかなくてはならないと常々唱えてきましたが、フランクフルト空港についていうと、空港内にホテルがあるのは言うまでもなく、映画館などの公共施設がいくつも設置されております。私は、これこそがこれからの空港の姿なのではないかと思っています。つまり、空港を核とした都市の開発と形成の推進です。「都市に空港をつくる」発想ではなく、「空港が都市をつくる」発想がこれからは重要とされるのではないかと思うのです。ですから、千葉県にとってもこの成田空港は、非常に大きな財産の一つであることは言うまでもありませんが、もっと広い見地から成田空港が置かれている立場についてお話したいと思います。

 まず、我々が空港に着いて論議するときに、問題の一つとなるのは空港の配置論です。つまり、何処にどういった役割の空港を作るのかが一つのテーマです。(4月号につづく)


 

Narita Airport News/ ナリタエアポートニュース
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